劇的な生活の変化
こんにちは。
コタローです。
今回も日記のような感じで書きたいと思います。
表題のとおり生活が劇的に変わりました。何がと言えば、嫁さんが私を警察に突き出して子供たちから隔離させられたのです。
なんでこんな事になったかと言うと、私は半年前うつ病と診断されました。仕事のキツさや下の子が産まれたばかりでの育児の大変さというのが主な原因で症状が重たかったので職場を離れてすぐに療養した方がいいとのことでした。
仕事から離れ療養を続けましたが、うつ病が中々良くならないので嫁さんがメインで働いてくれて自分は子供の面倒と家事をやっていました。一人暮らしも長かったので家事はある程度できていたと思います。子供達の面倒も自分なりにですが、一緒に遊んだら勉強を手伝ったり悪い事をしたら怒ったりとやれる事はやってきたつもりです。
ただそんな中で、私がうつ病のせいで夜うまく寝付けなかったり寝ても起きてしまったりしてキッチンでタバコを吸っていると嫁さんも気配を感じてか起きてきて『まだ起きてるの』とぼそっと言ってまた寝に帰るという事が何回もありました。寝れない時は夜中に散歩に行くこともありました。
よっぽど寝れない時はお酒を飲んで少し酔っ払うとちゃんと寝れていたので、お酒を飲む機会がどんどん増えてきました。
『最近多くない』と嫁さんから指摘が入っていましたが、飲んだら寝れると思って眠気がこない時はお酒の量が更に多くなっていきました。
うちの長男は3ヶ月前に耳の手術をしていました。退院後は1ヶ月安静でした。なので習っている野球も出れない状態で、1ヶ月後にやっと野球解禁された時はすごく楽しそうに練習をしてました。ただ耳の手術なのであまり頭に衝撃を与えてしまうとめまいなどが出てしまう恐れがあるとのことでしたので注意していました。
ある日に長男と次男がご飯を食べた後ゲームをしていて寝る時間を過ぎてもまだ続けていたのでゲンコツを一発ずつ入れて叱りました。その後2人ともしょぼくれながら歯磨きをして布団へ向かいました。
私たち長男の耳の手術の事もあったので軽くゴツンとやったつもりでした。
これらが普段仕事をしてくれて家のことを中々見れない嫁さんが、私へいろいろな不満抱えてしまい、子供へのしつけを暴力と主張し僕を警察に通報したのです。
最初は嫁さんが誰かに相談などをしていて周りからその様な通報があったのかと思ってました。ただ取り調べの時に警察の方に聞いたら嫁さんが通報したと聞いた時には頭が真っ白になりました。自分に不満を溜めてるのは知っていましたが見てもいない状況の事を勝手に判断して通報したのです。
取り調べの時に『今は児童虐待の件はとてもシビヤで少しでも手を出したのならお子さんとは一緒に居られないですね』と警察の方から話された時、涙が止まりませんでした。
『子供に会えなくなる』
『もう前の家族のかたちには戻れない』
いろんな考えが頭を目まぐるしく回っていました。
私は泣きながら状況を話していきました。
嫁さんは隣の部屋で俺の取り調べを見ていると聞いた時どんな気持ちで、どんな顔でこの映像を見ているのだろうと思いました。
警察の方から『奥さんとしっかり話し合ってください。お子さん達の事好きなんでしょ?話し合えばまたきっとお子さん達には会えますよ』と言われましたがそんな事頭に入っていきません。
取り調べの中『もう死のう』と思いました。
『広島に帰って会いたい人に会ったら、そのまま死のう』
自分のストレスゲージが振り切ってしまってもう死ぬ事しか頭にありませんでした。
取り調べは3時間近く続きました。
その間私の涙は止まりませんでした。
こんなに泣くのは初めてでした。
取り調べが終わった後、家に帰らずそのまま広島に向かいました。
会いたい友達に連絡をしたら『起きておくから気を付けて来いよ』と言ってくれました。
高速道路で何キロ出して走ったか覚えてないくらい、呆然と運転をして到着予定時刻よりかなり早い時間で広島に到着しました。
友達が集まってくれていて、この頃には涙も枯れて淡々と話す事ができました。
友とは本当に凄い力があるって思いました。
一緒にいて話をしてると今まで悩んでた事などがなんかいい意味でどうでも良くなっていきました。
そこから3日間俺のことを心配してくれて一緒にいてくれました。
本当にありがとう。
これから先はまた何か家族の事で落ち込む事があると思うけど、俺には友達がいるからもう大丈夫って思えました。
この繋がりはもう永遠だと思います。
文に変なところがあったらすいません。
それではこの辺で。
皆さんに幸あれ。
広島の人たち
どうもこんにちは。
コタローです。
色々あって帰ってきて友達にいろいろな人に会わせてもらって沢山のパワーを貰いました。
痩せ細った私の心にはとても染みました。
やはり地元はいいなと改めて思ってました。
なんですかね。方言を使われるだけでなんともまぁ染みる。同じこと言われても広島弁で言われた方が染みるんですよ。
分かってもらえる人は少ないかも知れませんが、半年鬱でグズグズしてた自分ですが帰ってきたらなんかスッキリ。やっぱ色々あってだから自分自身が強くなってんのかもだけど本当に助けられたって言葉に着きます。
皆さん本当に縁ってのは大事ですよ。
他の友達からも連絡が来てて久しぶりに会う友達とも会える喜びは本当に幸せだなって思う。
感動に浸りながらこの辺で。
ではでは。
今が辛くで必ず未来は来るし
その未来は未知の可能性が沢山詰まってる。
一緒に頑張りましょう。
今日は友達と
こんにちは。
コタローです。
専門の時の友達と今日は飲み会。
本当に連日事情も知らず集まってくれる友達に感謝してもしきれないです。
俺の帰省がきっかけであまり会ってなかった友達同士が集まれるのも副産物で、結婚の報告や子供ができた報告、本当にこの12年で沢山のことが変わったんだなってしみじみと感じました。
変わったことも多いけど、変わらない友達との距離感や話す感じのナチュラルさは本当に助けられています。
やはり地元は自分にとってとても大きくて大切で帰ってくる場所なんだなって実感しました。
自分が広島を離れて変わっていった街並みも見るのが楽しみです。
本当にありがたいが止まらないです。
簡単ですがこの辺で。
でわでわ。
何があっても自分を信じて歩いて行こう。
その先には必ず求めていた未来がまっている。
3日坊主予備軍。文章書くのむずい。でもやる!!
まだ始めて間もないのに書くことについてとても難しさを感じている。
それもそのはず、過去を遡れば小学校では作文の課題の時、3行しか書けずに怒られた。
中学校からは作文にプラス小論文。またこれも作文は半ページ、小論文は1枚いかず怒らる。この辺りからかなり書くことにマイナスなイメージを持っていて、高校に上がったらそりゃもう書くことから少しでも離れようとする毎日。
退学になって反省文書かされたのが文章としては最大だったはず。ちなみにレポート用紙2枚。本当は4枚いるみたいだったけど先生も俺の書くの嫌い病を知っており2枚で許してくれた。
マジ神。卍神。なんかかっこいい卍神ってw
そんな自分がブログを始めようってんだからほんと世の中何が起こるか分からないもんだね。
書いてもらったものに感想や評価をしてもらえるから本当に世の中便利になったよな。
まぁこの話も誰もコメントはくれ無いだろうけどこれから続けていけばいつかコメントくれる人が来てくれるだろうからほんと頑張ろ。
今回はただのお話。
ではでは!
皆様が未来に希望があります様に!
レインボーブリッジの色、松本人志『分かりにくい』に同感
ワイドなショー松本人志さん、東野幸治さんがMCをされている今話題の件を取り上げるワイドショーでコロナの件話で皆さんも知らないのではないかというような話題が持ち上がった。
レインボーブリッジが時間帯で色が変わっているという事だ。
今レインボーブリッジは医療従事者の方への敬意を示して青くライトアップされているのはテレビでも報道されており知っている人は多かったと思う。だが今東京アラートというものが発令され、時間帯で色が赤くなっているという。
しかもこの2つを同時にやっていて時間帯で色を変えていて都民に知らせているとのこと。
自分は福岡の物なので全体的に深くは知らなかったがワイドなショーで松本さんや東野さんが話されてた通り分かりにくいという言葉に尽きる。
『小池さん、ちゃんとみんなに伝えないと』と松本さんが番組中に仰られてた通り、ふとレインボーブリッジを見たときに青く点灯していたら『コロナ落ち着いたのか』と思う人は多くいるだろう。
まだコロナという世界を狂わせた脅威に手探りでいろいろな行動を取られているのはわかるが、もっと国民に分かるような大々的に伝えていかないとせっかくやっている事が意味がなくなる、または逆効果になってしまうのではないかと思う。
もっと今の状況を分かりやすく伝えていく手段はないのだろうか。
今回は東京都の事が挙げられていたが、コロナが落ち着きかけている今、仕事で県外から来ると人なども少しずつ増えてきていると思うのでコロナが始まった時みたいにLINEで全国みんなに通知を送るなどしてアラートを実施して欲しい物だな。
皆が皆のことを思って行動、発言をしていけばこの大きな災害は乗り越えていけると私は思います。
ではではこの辺で!
皆さんにとって明るい未来が訪れますように!
ディズニー、USJなどの遊園地を楽しみにしてる人は残念
あの夢の国やUSJで楽しさを半減させるのではないかという規制が発表されたそうな。
勿論3密はというのは念頭にありますが、抱き合うなどのコミュニケーションの禁止。
1番驚いたのは大声や叫ぶの禁止ということだ。アトラクションを楽しみたいファンからしたらこれはなかなか行っても楽しめないのではないかという声が聞こえてきそう。
お化け屋敷もソーシャルディスタンスとやらを重視さとか。。
自分は絶叫系やホラーが無理なのであんまり影響はないですが、パレードなどやレストランも再開は待ち遠しいなぁと思う。やはりこういう遊園地はパレードで盛り上がってそこにしかない食べ物を食べるってのか醍醐味じゃないかとおもうんたけどなぁ。皆さんはどうなんですかねえ。
でのまた東京や各地でコロナが再発しているから一旦はいけるだけでもよしって思う人も多くいそうだ。
早くコロナが落ち着いて普通を取り戻していきたいものですね。
それではまたまた!
皆さんにとって幸せな世界でありますように!
初めましてということで!
こりゃ日記になるなと最初から思っていたことが現実にw
初めましてコタローと申します。
ご挨拶がてら私のことを少し書いていこうと思います。
私、生れは広島県北の地にて産声を上げ誕生いたしました。
そこから18年間地元で過ごし進学で市内の専門学校に進学いたしました。
流れといたしましては、小さな頃はかなりのシャイBOYでございまして母親の後ろから出ていかないような子供だったそうです。
小学校に上がると少しずつシャイは控えめになり、好きなお笑い番組を学校のクラスのみんなの前で真似して笑いを取るのが楽しかったそうな。
小学校中学年の時、母親が家から出ていき親父、姉、祖母との生活が始まり苦労したのは昔の話。
中学ではしたい部活決めれない優柔不断BOYに進化しました。
結局、小学校からの友達が入るといっていたサッカー部へ入部。そこから今でもサッカー観戦は大好きです。
中2でギターに出会いもくもくと練習に励む自分が今では考えられません。
友達とバンドを組めるようになるとそこから自分の音楽ライフが始まりました。
高校に進学してもそれは続き友と一緒に音と戯れていました。
ド田舎だったのでライブハウスは無く、文化祭や地域の発表会、夏や秋の祭りが皆様の前で披露する唯一の場所でした。(今考えれば音楽フェスみたいなもんかw)
音楽にアイデンティティを感じた私は地元を離れ音楽の道に進むがごとく大都会広島市に移住、進学するのでした。(本当に当時はビビってました)
進学先は音楽の裏方の専門学校。音響機材や照明機材の取り扱いや実践さながらのライブを企画し、生徒たちで運営していくというものでした。
いやーここまで書いたら疲れましたw
書きなれてないからでしょうね。
(10分たばこ休憩入ります)
(10分後)
只今帰りました。
続きを始めます。
専門学校の実践的なカリキュラムに理想と現実の違いをのマイクタイソンのストレートをくらったかのごとく挫折。
『やっぱり音楽をPLAYしたい』※漫画のBECK読んでしまったからです
少年の心を忘れられない若き日の自分は専門卒業後、バンドを組み音楽活動を再開したのであった。
そこからは楽しく音楽を続けていき。。。。とはいかず、
結局バンドのメンバーがうまく集まらず25歳でバンド生活はまた終わったのでした。
そこからはまともの働こうと某眼鏡屋にバイトから入り社員に。
社員になったらいきなり異動で当時付き合っていた彼女と離れ離れの福岡転勤。
結婚も考えていましたが遠距離でうまくいかずあっさり振られました。
その時励ましてくれた同僚の女性とお付き合いして結婚までしましたとさ。
まあ結構はしょりましたがこんな感じです。
現在は持病のせいで会社を辞めて主夫してます。
なにか今後の為にと今はコンサルの勉強を始めました。
このブログもその勉強の一環です。
ぜひ書いてったものに意見等ございましたらコメント下さい。
コメントとか書けんのかな?
ではでは!
皆様が良い人生を歩めますように!